2018年7月8日に大阪で開催された集会、『在日帰国者は北朝鮮でどう生きたか?~北から逃れた人々を迎えて~』における、林潤美(リム・ユンミ)さんの証言録です。帰国者の子として北朝鮮で生まれた人にとって、北朝鮮での暮らしはどのようなものだったのでしょうか。前・後編2回に分けて掲載します。(聞き手 宋毅)
宋: 1970年に北朝鮮でお生まれですね。ご両親が在日二世ですから、在日で計算したら三世になりますが、帰国された両親のもと現地でお生まれなので、在日帰国者二世ということになります。北朝鮮では学校の先生をされていたんですか?
林:北で生活する時には大学院で勉強していました。
宋:では簡単に、脱北に至る経緯について話していただけますか?
林:1997年に脱北をしたのですが、最初から脱北をしようというのではなくて。二番目の兄が、当時、北の保衛部という秘密警察みたいなものですが、そっちの方にひっぱられて、拷問されるという問題が起きてしまいました。そのため、日本の家族親戚に経済的な要請をしようとして、脱北したというのが一番の大きな動機でした。
日本の家族に連絡しようとしたんですが、北から直接電話などをすると、盗聴のおそれもあったりするので、当時、外貨稼ぎということで、中国と北朝鮮の間での貿易が盛んな時期だったということもあるので、夫が、中国との色々なルートを持っていたので、それで、中国に出て、電話をまず中国からしよう、北ではできないので、それで、まず、母と夫が、中国の方に非合法的に入国をしました。中国に出て、電話だけして、そしてまた北朝鮮に帰ってこようとしたのです。中国の改革開放の話は聞いていたのですが、実際に行ってみたら、中国の発展の状態に度肝を抜かれてしまったのです。
そういう経済の発展ぶりを見た時に、実際に自分たちが生活している北の現状、北の現実と比較して、やはりこのまま北に帰らないで、中国でそのまま脱北したほうがいいんじゃないか、自分たちのこれまでの北での何十年かの、やはりそこには戻りたくないという気持ちが起こってきました。
宋:北朝鮮で生まれて、北朝鮮式の生活するほかなかったと思うんですが、家の中で日本の文化というものがあったのでしょうか?
林:父と母が日本からの帰国者なので、当然、家庭内でも日本の話をしますし、また、日本から送ってくる荷物などを見て、日本をずいぶん感じることもありました。
宋:ユンミさんは、いわゆる二世になるので、もちろん言葉も北朝鮮の方と全然そん色のないしゃべり方でしょうが、それでも在日帰国者ということで、現地の人と溝のようなものはありましたか?
林:小さい時は、日本から送ってくる食べ物だとか服だとか、そういうものが、北に実際に住んでいる人たちとの違いを感じて。それは、すごく自分にとっては心地が良かったので、何かその北の人たちから、自分が帰国同胞の子供だからと言って差別されるとか迫害されるとか、そういうことはなかったです。
宋:帰国者や帰国者の子供に対して、北での就職先とか、就職した上での昇進とか、何か現地の人たちとの差はありましたか?
林:10代の中盤から後半くらいになってですね。学校に通っているときの話ですけれど、いわゆる日本語で言うと喜び組ですか、それを選抜するために党中央の幹部たちが、学校を巡回しながら喜び組のメンバーを集めていくらしいんですけど、私も少し美人に生まれたものですから、いったんそういう選抜に引っかかるんですけど、最終的には平壌のほうまで連れていかれることはなかったので、そういうのが、ひょっとしたら帰国者の同胞で何が障害となったのかなあと、今はそんな風に思っております。
宋:脱北後、韓国に初めて行った時に、全然経済体制も違うし、発展度も違うでしょう。北で言われていた韓国のイメージと、韓国に入った時の韓国のイメージとどういうギャップがありましたか?
林:自分自身が脱北する前には韓流ブームというのもなかったですから、韓国にそういうイメージはなかったんですが、実際に韓国の発展を感じたのは、日本から送ってくる荷物の中に、韓国産の製品がいろいろ入っておりまして、それを見て、韓国は経済が発展しているんだなということを感じたんですね。だいたいそれが87年くらいのお話で、そのあと、89年に、韓国の大学生の代表で、イム・スギョンという女子学生が平壌を訪問するんですが、そのイム・スギョンという女子学生の言葉遣いだとか、ヘアスタイルだとか、ファッションだとかを見て、すごく韓国は洗練されているんだなあ、発展しているんだなあということを感じました。そのあと、中国に行ったときに、中国の朝鮮族からも、韓国は今すごく発展しているよという話を聞いたんですけれど、実際に韓国に行った瞬間に、朝鮮族が言っている以上に発展していることを実感しました。(続く)