穏やかに、この地で暮らしていくのだと思っていた
関西出身 金○○さん ②
前回 <連載>北朝鮮に渡った在日のはなし ~なぜ帰国し、どう生きたのか~第9回
◆北朝鮮での学校生活
――小学校では、給食のようなものは?
それはなかったです。でもお弁当を持参したのではなくて、当時の小学校は朝クラス、午前クラス、午後クラスと分かれていて。例えば1・2年生は午前、3・4年生は午 後、といった具合に。なので授業が終わって、家で食事をしてから出発するか、授業のあ とに家で食べていましたね。
――宿題も多かったですか。
宿題もけっこうあったと思います。放課後外で友達と遊んだ記憶はあまりないですね。特に3年生頃になると全員少年団(※朝鮮少年団 小学2年生から初等中学3年生までが対象)に入団するのですが、「子どもの課題」(ノルマ)があって、例えば「古紙あつめ」「鉄くずあつめ」といった課題がとても辛かったですね。
でも、子どもの頃の北朝鮮はなんだか穏やかでした。子どもの感覚ではあるのですが、何か特別辛かったり、後悔したり、そういったことはなかったです。ただ、ここでこんな風に暮らしていくのだな、と当時の私は感じていました。
――どの教科が一番お好きでしたか?
私は算数が一番好きでしたね。ずっと学んでみたかったのですが、大学にいくなんて、考えてみたこともないです。両親は私たちの教育のためもあって帰国を決めたと思うのですが、帰国後まもなくわかってしまったのです。当たり前のように、私たち帰国者は絶対大学には行かせてくれないって。
大学に行くなんて夢にも見ることはできてないけれど、私は負けず嫌いな性格なので、一生懸命勉強はしました。
でも、勉強はしましたが、頑張ったところでその必要はありませんでした。「帰国者」「チェポ」(※째포 日本からの帰国者に対する蔑称)というスタンプが、いつも背中に貼ってあるのですから。
それでも兄と姉は高校まで卒業しましたし、弟も高校、私ひとりだけ技術学校までしか行きませんでした。兄と2番目の姉は通信大学まで卒業しました。通信大学程度なら帰国者でも当時 入学させてもらえたみたいですが、一般の大学は絶対無理でした。5人兄妹のうち誰ひとり進学できませんでしたね。でも、私の子どもの世代になるとそういった制限も無くなって、だんだんと大学まで行けるようになりました。それは家族が国家にいかに貢献しているかにもよるのですが。
(※「帰国者は絶対に大学進学できなかった」と金さんは回想するが、金さんと同世代で、親が総連幹部出身でもない帰国者の子供で、60~70年代に大学に進学したという証言がある。)
◆職業生活
――技術学校卒業後は仕事に就かれましたか?
はい。便宜管理所というサービス業の職場で縫製の仕事をしました。結婚後も女性同盟(※女性同盟 当時は朝鮮民主女性同盟。既婚女性を組織した大衆団体。)で活動をしながら同じ職場で働きました。
学校を卒業してから24歳くらいまでは「労農赤衛隊」(民兵組織)で軍事訓練にも参加しましたよ。
実弾の入った射撃訓練も1年に1度必ず行いました。当時は、もし戦闘体制となれば私も出動しなければいけない!といつも緊張していたものです。
時々、真夜中に連絡網を通じて非常招集されるのですが、その際には専用のカバンに必要なものを全部入れて急いで出発します。備えてある木製の銃を携えて。
一般訓練時には木製で、1年に一度本物の銃を使って訓練しました。
◆当時の余暇
――普通土曜日までの勤務ですか?学校と同じように?
北朝鮮では日曜日が必ず休みだというわけではなく、地域によって休日が異なるのです。学校は日曜日が休みですが、基本的に労働者たちは企業所(※職場の意)別に休日が設定されています。ですので、お父さんは休みだけど子どもは学校、ということも普通の出来事です。
――では子どもたちと休日にピクニックに行くことも難しいですね。
そういったことは全くできませんでした。
本当にごく稀なことではあるのですが、1990 年の初め、私の夫がまだ生きていた頃ですね。仲がよかった帰国者同士で自家用車に乗って遊びに行ったことがありました。日本から送ってきた車を持っていた帰国者の家族が近くに住んでいて、仲良くしていました。
それで川辺まで行って、みんなで遊びました。食べ物や飲み物を準備して、お肉を焼いて、水に入って遊んだり。水がとても澄んでいて、冷たく気持ちが良かったです。
とても良い思い出ですね。その当時は穏やかで本当によかったです。本当に、その頃までは。その後、まさか飢饉の時代を迎えるとは、当時想像もしていませんでした。(了)
ー聞き手 洪里奈