「北朝鮮帰国者の記憶を記録する会」では大阪、東京、韓国にお住いの脱北帰国者50人の聞き取り調査を終え、整理・編集作業を進めています。書籍刊行に先立ち、証言の一部を抜粋し連載中です。
今回は第7回目、4人目の方のエピソードです。
女として生き延びていく
滋賀県出身 ジョン○○さん ①
1948年滋賀県で生まれた。幼い頃朝連(在日本朝鮮人連盟)で活動していた父と母は離婚し、ご本人は父と離れ母と共に暮らしていたが、まもなく父の強い希望があり、姉、兄2人、そして父と共に1961年夏に帰国に至る。実の母は日本に残り、家族を支え続けることとなる。
◆帰国前夜
帰国する頃、上のお姉ちゃんは19、20歳のときで、もう仕事に出ていました。上のお兄さんは高校まで行ったか、中学を出たのか忘れてしまったけど、なにしろトラックの運転手をするって言い出していた頃でね。お父さんに買ってくれってお願いしていたものです。「トラック1台さえあれば俺は金儲けできるのに」なんて言っては嘆いていました。
上の兄姉たちは皆仕事しようって意気込む年頃でしたが、なかなか思うようにいかないのもまた現実だったようです。
――アボジ(※お父さんの意)が帰国を決めた時、上のご兄姉は反対しませんでしたか。
反対も何も、みんな逃げ回っていましたよ。特にお姉ちゃんはとことん逃げてましたね。お姉ちゃんはキャバレーに勤めていたのですが、職場までアボジが見つけ出して。なので、本当は(帰国事業が始まってすぐの)帰国船20船ぐらいで帰れたのに、うちの家族は延期して延期して34船で帰国することになりました。アボジが子どもたちを絶対に連れて行きたかったのでしょう。
アボジは熱心な活動家だったので、もちろん祖国建設への想いみたいなものもあったと思いますが、何より子どもたちをまともにしたい、間違った道に行かせず、子どもたちにただ夢を持たせてやりたい、その一心だったと思いますね。日本にこのまま置いていたら、コソ泥したり、キャバレーに入り浸ってしまったり、とにかくアボジとしては心配が大きかったのでしょう。
日本では大学に行けなくても、あっち(北朝鮮)に行けば大学もいけるし、家もくれると信じていましたしね。たとえ人間が不真面目でも、せめて道を外さずにはいられると考えたのだと思います。
――日本では朝鮮学校に通っておられたとのことですが、子どもの頃の認識はいかがでしたか?金日成や北朝鮮について?
学校にいっても写真があってよく覚えています。幼い頃金日成は神様みたいないい人なのだと思っていました。朝鮮語の勉強は、転校したりすることも多くてあまりできなかった覚えがあります。帰国してから本格的に学んだ記憶がありますね。
◆帰国準備と新潟赤十字センター
アボジは3年もすれば統一すると信じていたので、荷物を全て3年分持っていきました。結局その後売ってしまって、全部私たち家族のお米に変わりましたけどね。(笑)
そんな私も実は新潟センターで逃げようと目論んでいましたが、お姉ちゃんが自分だけ逃げたら許さないって言って怖い顔で見張っていて、できませんでした。でも私は、やっぱりお母さんと暮らしたかったですね。
――新潟センターで赤十字からの「意思確認」を受けた記憶はありますか?
お姉ちゃんたちは受けていたけど、13歳だった私は何も聞かれませんでした。大人は何かサインをしていた記憶があります。(続く)
ー聞き手 洪里奈