自力で境界線を乗り越える−帰国船を止めるために
愛知県出身 金幸一(キムヘンイル)さん ②
前回<連載>北朝鮮に渡った在日のはなし ~なぜ帰国し、どう生きたのか~第5回
◆たった一人での帰国、そして脱出
ーー帰国船から下船される時の話を聞かせてください。
私は一人で帰国船に乗り込みました。それでね、やっぱり清津(청진)港につくやいなや気づきましたよ、「楽園ではない」と。嗅いでいられないような匂いがして、人びとは力が入っていないと言ったらいいのか、食事をしっかり摂れていないような表情でした。
到着してすぐの招待所では、父の同僚の総連の幹部らが「判断を間違えた」としきりに話しているのを聞いて、やはり総連の幹部級の人たちも真実を知らないことに気づいたのです。「帰国船をなんとか止めなければ」と。
――それでも一度は職場の配置(※住居や職場の命を受けること。北朝鮮では18歳以上の労働力を持つ者が生産労働に参加することを義務化している。)を受けたのですね?
そうですね、一度は咸鏡北道雄基(ウンギ)の総合工場内にある自動車修理の部署に配置されました。父は帰国すれば大学にも進学できると言っていましたが、全くそういった兆しはなく、それはやっぱり嘘なのだと実感しました。
咸鏡北道は北朝鮮では一番北の地域で、夏でも夜になると冷たい風が吹いていたのを覚えています。工場にはたまに出勤して、怪しまれないようにしつつ、地図を確認したりといった脱出の準備をしましたね。あとは、せっかくだからこの国について自分の目で直接見ておこうと思いました。
――それは、どういったことですか?
北朝鮮のいろんな場所を訪れて、自分の目で確認しておかなければ、と。だから脱出する前にまずは平壌へ向かいました。平壌では、多くの帰国者らしい人たちにも話しかけました。服装や様子ですぐに日本からの帰国者だとわかりますからね。
皆やはり暮らしは芳しくない様子でした。平壌も特段何も見るものがなくて、自分にとってはつまらないと感じましたね。その時はせっかくなので有名な玉流館で冷麺を食べました。(※玉流館(옥류관)平壌の高級レストラン。2018年板門店で行われた南北首脳会談で振る舞われたことでも有名。)
――それでは「脱出」までの経緯を教えてください。
平壌で過ごした後、大同江駅から江原道の洗浦駅までは電車で向かいました。その後は列車の線路に沿って、江原線の平康駅をまず目指し、その後はとにかく南の方角に歩きました。コンパスなどは持っていませんでしたが、星を見ながらとにかく南へ。夜になったら必死で走り、昼間は木陰に隠れて休んで、を繰り返しました。
38度線付近は(※ご本人の発言に基づく。非武装地帯・軍事境界線付近の意。38線(삼팔선:サンパルソン)と呼ばれることが多いが北緯38度線とは一致しない)当時は現在のように鉄条網に電気が通っていたり警備兵が配置されているわけではなかったので、どんどん南下することができたのです。もちろん地雷はあったでしょうが、夜になると昼間溶けた雪が凍って地面が固く覆われたので、それで私は運良く踏みませんでした。
1週間南を目指して歩き続けた頃には、体力に自信がある私も限界だと感じましたね。そんな折に、南韓軍の放送が聞こえてきたので、その方向に無我夢中で走りました。そしたら黄色い「38度線」と雑に書かれた看板を見つけたのです!地雷が危ないと思ったけど、幸いにも人の足跡があったのでそれに沿ってひたすら走りました。その後、韓国軍に保護してもらうことができました。
――つまり幸一さんは6月に北朝鮮へ「帰国」し、翌年9月には韓国に行かれたのですね。
その通りです。朝鮮半島の南側、韓国では帰順勇士(※国家が功労する称号。当時は脱北者について「帰順者」等と称した。)として歓迎してもらいましたね。その後は日本からの帰国船を止めたい一心で、様々な場所に自分の経験を書いて、テレビ等にも積極的に出演したりしました。自分の行動があったからこそ帰国者の数が減ったと思っていますし、それは嬉しいことです。
しかし、完全に止めることができなったという後悔の気持ちは、今ももちろんあります。(了)
ー聞き手 洪里奈