穏やかに、この地で暮らしていくのだと思っていた
関西出身 金○○さん

 

ご両親は慶尚北道の生まれ。「渡日後は朝鮮部落で暮らし、父は土方として働いていました」。
ご本人は帰国にいたる経緯については詳しく記憶してはいないものの、当時の生活苦から逃れるため、そして子どもたちの教育のためだったのではないかとご本人は推測している。
韓国の南側から植民地期に日本へ、そして北の極寒地域への「帰国」ご両親はその地で生涯を終えることとなる。

 

◆ご両親について

――ご両親は朝鮮半島の南部出身とのことですが、朝鮮語について書くこともできましたか。

父も母も朝鮮の文字の読み書きはできたと思います。日本語の読み書きも。
私の母は11歳 の頃、日本に渡ったのですが、すぐに製紙工場で勤めることになったようです。その工場の機械の高さがどうも子どもには合わなくて、何か石ころのようなものを挟んだりしながら、なんとか針仕事をしたと言っていましたね。そんな暮らしの中でいつどのように文字を勉強したのかはわかりません。
母は本が好きで、朝鮮語も日本語もどちらも読んでいました。北朝鮮に渡ったあと、晩年もメガネをかけて、ずっと本を見つめていました。
その影響もあってか、私たち兄妹を日本では朝鮮学校に通わせたのかもしれませんね。

 

◆帰国後の学校生活

――帰国後はすぐに学校へ?

すぐ(北朝鮮の小学校へ)転入したと思います。
その当時、日本では2年生を終えて3年生に進級し、その一週間後に帰国しました。5月だったのですが、北朝鮮ではまた2年生に編入して、数ヶ月間もう一度2年生をして、9月からやっとまた3年生をしました。当時は9月が年度の始まりで、8月に1年が終わったので。
転入先の学校はとても小さな学校でした、小さな村なので、小学校と中学校がそれぞれ1つずつあって、それ以上の学校はありませんでした。
1クラスだけで40人くらいだったと思います、わたしは女子だけのクラスでした。

帰国船第一船で帰国をした少女。学校で学ぶ様子。

 

 

――日本からの転入生だって、クラスのみんなからからかわれたりしましたか?

珍しがられはしましたが、勉強に必要な物を持ってきてくれたり、鉛筆を貸してくれた子もいました。みんなとても親切でした。
帰国した当時の私は「ありがとう」「こんにちは」くらいの朝鮮語は話せたのですが、助けてくれる子に対して「ありがとう」って朝鮮語で答えたら、「朝鮮語話せるんだね!」って思われたりもしました。そのあと大変でしたよ。(笑)
それでも、日本で朝鮮学校に通った甲斐があって、算数のような科目は特に問題なく理解できましたし、学校にはすんなり慣れて楽しく通いました。
(当時の北朝鮮では小学校4年、中学校3年、技術学校(高等学校に相当)2年の9年の義 務教育だった。のちに11年の義務教育に変更となる。)

小学校の先生がとても優しかったことを覚えています。日本から来たからと特別扱いするような先生ではなく、とてもよくしてくださいました。
日本でのいわゆるいじめのようなものや、先生から暴力があったといった記憶も特にないです。(続く)

 

ー聞き手 洪里奈

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(2020年9月14日)

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