女として生き延びていく
滋賀県出身 ジョン○○さん ②
前回<連載>北朝鮮に渡った在日のはなし ~なぜ帰国し、どう生きたのか~第7回
◆帰国後の学生生活‥スポーツに熱中
――13歳で帰国されてからの学校生活についてお聞かせください。
北朝鮮に行って学校に入る頃は中学にちょうど入学する歳だったのですが、スポーツに集中することになりました。私は体力があったので、陸上から始まり、バスケットボール、また陸上、またバスケット、そしてバレーボールと、中学生の頃は、あれもやってこれもやって、なんでもできる選手でした。特に陸上は速くて、高跳びと幅跳びはいつも1等か2等でしたよ。今もスポーツはスキー以外全部出来ますよ。進学してスケートを始めるのですが、中央(※北朝鮮での全国大会の意)まで行きました。私、スケートは本当に早かったんです。
幼い頃日本で暮らした時、よくお姉ちゃんとアイスリンクに行って、まるでフィギュアみたいにスケートを滑って遊んだものです。北朝鮮に来たらタダでスケートに滑れちゃうので驚きましたね。昔は氷がよく凍ったので。
日本で残って暮らすお母さんに、「私スケートがやりたいんだけど、送ってほしいな」とお願いしたら、ホッケーを送ってきたんですよ。(笑)さすがに家族皆で笑っちゃって。お母さん、これはホッケー!スケートじゃないよって手紙に書いたら、今度はフィギュアスケート用のシューズを送ってくれて。だから仕方なくフィギュアに挑戦してみたのですが。何度もひっくり返っちゃって。当時の指導員が、「あなたはね、踊るタイプじゃないから(笑)スピードスケートをしなさい」って。それでスピードスケートをすることになりました。
日本の製品をあれこれ悩んで送ってくれたお母さんには、今でも感謝しています。
――とても活発な子ども時代だったのですね。
そうですね。スピードスケートの場合、女子の部のようなものはなく、男子と勝負していましたよ。私は女子には必ず勝つし、男子とは対等に張り合っていました。おかげで男みたいな性格だとよく言われますよ。たとえば、学校では女子に掃除させなかったりね。男子たちに「オイみんな来い」って集めて、男子に掃除させて、女子には家に帰りなって言っていましたね。まるでガキ大将でしたね。(笑)
義務教育卒業後は技術学校(※高校に該当。職業技術を学ぶ)に進学して、そこでもいろんな競技を続けていました。スポーツをしつつ、勉強は大体寝ていましたね。卒業後すぐ19歳で結婚しました。
◆子育ての苦悩
――北朝鮮での暮らしの中で、一番辛かったことはどんなことでしたか?
そうですね、若い時…あの時は一番涙が出ましたね。田舎に住まわされて、水もないところで。井戸水を汲むために子どもを(家の)椅子にしばりつけてね。たまに戻っておっぱい飲ませて、おしめ取り替えて、パンツ取り替えてはまた縛って。子どもを椅子に縛り付けて仕事に行ったのです。あんなの、赤ちゃんへの拷問ですよね。私は子どもに拷問をしてしまったと、その時のことを考えたら胸が苦しくなります。
そんな娘も今はたくましく育ってくれて、なんとか健康で、よかったと思います。時に申し訳ない気持ちにもなりますが、子どもはやはり拠り所ですね。
私は(日本に残る)お母さんがいたから生きてこれました。お母さんの支えがなかったら私は乞食でしたよ。スケートから始まって、私がお嫁に行く時も布団から何からみんな送ってくれて。洗濯機も、編み機も、お母さんが全部(日本から送ってくれました)。子供子どもが4人もいるのに、兄姉みんなに同じようにしてくれたのです。母とは短い間しか一緒に暮らせなかったけど、お母さんのことがいつも心にありましたね。(了)
ー聞き手 洪里奈