日本の子供時代の記憶が生きる支えだった
李泰炅(イ・テギョン)さん ②
前回 <連載>北朝鮮に渡った在日のはなし ~なぜ帰国し、どう生きたのか~第3回
――新潟での体験についてお聞かせください。
私が乗った船はドボルスク号。初めに幹部のような⼈が降りてきたのを覚えています。顔は⾚く、服もロシア製の⼤きいものでした。私は⾔葉もよく知らないまま、周りに合わせて拍⼿をしたのを覚えています。
その後船に乗り込んだのですが、その時は周囲の人々の泣いて悲しむ姿が⼀番印象に残っています。2番⽬の兄と⼀緒にテープを投げたりしながら、⼦ども⼼に「あ、これが別れというものなのだな」と感じましたね。泣いたり感激したりする人々と、ざわめきの⾳や離別、船から聞こえる「祖国」からの歓迎の声。私は家族と⼀緒だったので、悲しみは特になかったけども、泣いている⼈を⾒ていると一緒に悲しい気持ちになったものです。
――帰国船の中で記憶していることは?
2泊3⽇、船内で過ごしました。ロシア船だからロシアの⼈たちがいて、兄たち世代の⼈は そこでロシアの歌を学んで歌ったりしていましたね。⼀番印象的だったのは⾷事でした。米は匂うし、⾊も⾚く、こんなまずい米は初めてでした。⼩さなリンゴも⾷べることができませんでしたね。今思うと2、3年経った古いお⽶でカビ臭かったんだと思います。
到着する朝、誰かが「祖国だー!」って叫んでいました。好奇⼼もあったので外を⾒てみると、埠頭と倉庫のようなものが⾒えました。その後、花を抱えた⼤勢の群衆が⾒えたのを覚えています。みんな顔が⿊く、服はぶかぶかで痩せていました。⼤学⽣くらいだったと思うけど、紙で作った花を抱えて歓迎してくれているようでした。「在⽇同胞歓迎の歌」というものがあって、それを歌っていましたね。
◆清津港に着いて
その後、⾞に乗ってでこぼこ道を移動しました。当時としてはとても良い⾞だったのではないかなと思います。歓迎会のため会館のような場所に連れて行かれて、家族単位で座りました。真ん中に軽⾷がありましたが、お菓⼦が全く甘くなくて、子どもの私は⾷べることができませんでした。
子供ながら、船の中の⾷事で何かを感じて、歓迎する⼈びとを見たり、お菓⼦を⾷べたりしながら、少しずつ察し始めていたと思います。 招待所(※清津から上陸し、一時的に滞在する施設のこと。歓迎行事や社会見学などが実施された)では 10 畳ほどの畳部屋で1週間過ごしました。⼤きな地図があって、配置先として地図のとても上(北) の⽅を⽰されましたが、私たち家族は韓国でも南の⽅で暮らしましたし、山口県も南の⽅だったので寒いのはつらい!南の⽅がいい!平壌がいい!と主張しつづけました。
しかし平壌の希望は受け入れられず、平安道D 郡に配置されました。
◆北朝鮮での暮らし始め
――初めて配置された頃の暮らしはいかがでしたか?
私が暮らした D 郡は平壌の近くで、帰国者が25家族ほど暮らす村でした。家は1棟に2世帯ずつでしたが、私たちは家族が多いので 2 部屋を与えられました。初めて家に⼊った時の、なんとも言えない⾖の⽣臭い匂いがきつくて、今も忘れられません。(※新しい家を建てると⾖の油を塗る)家には⽶とふとんが⽤意されていました。
⽗が家から遠い場所まで⾃転⾞で行って洋服を売り、そのお金で⼦ども達に飴やお菓⼦を買ってきてくれたことをよく覚えています。食事は4(米):6(とうもろこし)のとうもろこしご飯を食べることがほとんどでした。毎日、日本の甘いものを懐かしむ日々でしたね。それは大人になってもずっと続きましたよ。
子どもの頃に大好きだったカステラやパン、アイスクリームやみかんジュース。
大人になっても、日本で撮った写真を⾒ては「これは何歳の時だ」と何度も思い出しました。記憶というものは、経験し、保存し、そしてまた思い出す、こうして循環させるほどに記憶になっていくものです。
北朝鮮での日々で何度も繰り返し思い出したので、特にはっきりと覚えているのだと思います。そういった子供の頃の記憶が、私の生きる支えとなりました。決して忘れることはないでしょう。(了)
ー聞き手 洪里奈
イ・テギョン(李泰炅)さんはその後北朝鮮で医師として従事され2005年に脱北。2009年に韓国に入国し、現在は韓国で暮らしています。
より詳しい内容については、イ・テギョンさんが直筆された手記がこの度刊行されましたのでぜひお手にとってご覧ください。