日本の子供時代の記憶が生きる支えだった
李泰炅(イ・テギョン)さん ①
1950 年代、⼭⼝県下関出身。朝鮮人集落で焼肉屋を営んでいたテギョンさんの両親のもとには、自然に「帰国事業」に関する情報が集まった。お⽗さんは故郷である南への帰国を渇望していたが、当時は北朝鮮より貧しく、政治経済的にも不安が⼤きい南側へ行く意思決定はできなかった。そこで家族は帰国船に乗ってまず北側へ行き、統一すれば誰よりも早く南の故郷へ行こうと考えた。2年もすれば統⼀するだろうという当時の総連の宣伝があったそうで、それがテギョンさん一家の帰国を後押しした。
◆幼い頃の日本での記憶
――日本について覚えていることはありますか?
⼦供の頃のことは特によく覚えています。私は5人兄弟姉妹の4番目として生まれました。両親は下関で焼⾁屋を経営していて、関釜連絡船の乗船場のそば、埠頭のすぐ横だったので、⾷堂は活気がありました。両親は韓国の家族に送⾦していましたし、⼩さな⼀軒家を建てて家族で質素に暮らしました。焼き肉屋の客はほとんど朝鮮⼈で、船乗りが主でした。夜は客らがお酒に酔って朝まで歌を歌うこともあり賑わっていました。裕福ではないにせよ、お腹を空かせることはありませんでした。
よく兄弟で⼀緒に浴⾐を着て、花火をして遊んだのも良い思い出です。夏の夕暮れ時は風が心地よく、大好きでした。⼤丸百貨店にもよく行きました。⼤丸の屋上には遊び場があり、乗り物や紙芝居を楽しみました。⼤丸の屋上には遊び場があって、楽しい乗り物があったり、⼩銭を⼊れると漫画が出てくる遊び場があったり、「紙芝居」があったり。 鮮明に覚えています。
下関朝鮮初中級学校(当時)に2年⽣に進級するまで通いました。学校まではバス通学。⼦供にとっては遠い距離でした。バスに乗り込む時に保護者同伴なら無料になったので、こっそり知らない⼤⼈と⼀緒のフリをして乗⾞して、浮いたお⾦でパンを買って⾷べたりしましたね。
⼀緒に通った2番⽬の兄のアイディアでしたが、とても機転のきく⼈でした。
◆帰国船での記憶
――帰国は誰が決めたのですか。
お⽗さんは故郷である慶州への帰還を望んでいました。しかし南の政治、経済状況は帰れるような状況ではなかったし、大人達にとって1960年の 4.19 (※韓国で発生した独裁政治反対の民衆運動)も衝撃だったでしょう。そんな中で総連では「北に⾏け」と⾔っているし、お母さんも子どもたちの将来を考えたら、「祖国」では大学まで保障してもらえるというし、帰国した方がいいのではないかとお父さんに説得していました。
お父さんも色々な人から話を聞くうちに、2年もすれば統⼀し、北朝鮮主導のもとで統⼀するだろうと信じていました。それは誰にとっても確証のないことでしたが、総連はなんでも⾔ってとにかく家族を送ろうとしたのだと思います。
兄も姉も反対することはなく、両親の意向に従いましたね。兄は九州の⾼校に通っていましたが、兄も「(朝鮮人は)帰国するものなんだな」と思っていたそうです。1960年、私が8歳の時帰国しました。
――帰国の準備で覚えていることはありますか?
「古いものは没収される」という噂を聞いたので、新調したものだけを持って行ったことを覚えています。⾃転⾞、写真機、ミシン等、すべて新しいものを2台ずつ用意しました。帰国の前に15⽇間ほど、両親がお小遣いをくれました。映画を観たり、好きだった甘いものを⾷べました。欲しいものも買っていいと⾔われて、私はおもちゃの野球盤を買ってもらいました。とてもうれしかったですね。姉や兄はオルゴールを買ってもらっていましたが、それを大人になっても本当に大切に持っていました。(続く)
ー聞き手 洪里奈
イ・テギョン(李泰炅)さんはその後北朝鮮で医師として従事され2005年に脱北。2009年に韓国に入国し、現在は韓国で暮らしています。
より詳しい内容については、イ・テギョンさんが直筆された手記がこの度刊行されましたのでぜひお手にとってご覧ください。