14歳で帰国船に乗った石川学さん
北朝鮮での30年とは何だったのか?
社会生活の始まり、そして父の永住帰国
1976年、恵山高等機械専門学校を卒業し、私は行政機関の設計事務所に配置されました。姉と兄の後ろにくっついて帰国した頃はまだ14歳だった私も、いよいよ20歳になり社会に出ることになりました。
なぜ私が設計事務所に配置されたのか。行政の人は書類を見れば私が帰国者だということが分かるので、帰国者に現場労働は大変だ、おそらく難しいだろうと、行政側の配慮のようなものがあったようです。そのため、私に与えられた業務は他の肉体労働に比べるととても楽なものでした。
仕事は工業設備の設計でした。一年中仕事は室内で出来ましたし、ノルマもないため、達成できなかったからといって給料から差し引かれる罰金もありません。もし私の仕事が送れたり、ミスがあったりしたとしても、少し怒られるくらいで給料に影響はありませんでした。
本当に遊んでいるような毎日でしたね。それも、それなりの給料をもらって。しかしこれは76年から79年までのことでした。私は79年に設計事務所から機械工場に異動することにしました。誰かに命じられたわけではなく、私の意思によってです。
◆激務の現場労働に配置換えを志願
自ら「機械工場に送ってくれ」と行政の市労働課に申し出ました。担当者は大層驚いて、「こりゃまたなぜだ?」と聞いてくるほどでした。設計事務所のような楽な所で働きたいと思う者はごろごろいるわけですが、私のように楽な職場から現場に行きたいなんていう者なんてめったにいないからです。
実は、設計事務所に配置された時、住居がなくて上司の家にお世話になっていたのですが、やはり他人の家に長くいるのには申し訳なく、どうしようかとずっと悩んでいました。工場勤務となれば寮に入ることができると知った私は、機械工場で働くことにしたというわけです。※
理由を聞かれ、私はこう答えました。
「偉大なる金日成首領様は、若い時には辛く大変なことを率先してやりなさいと仰っている。俺はそれを実行したいんだ!」
するとその労働課の課長のおばあちゃんたちはえらく感心して、「ご立派です!」と言ってくれるほどでした。普通は4日間程かかる手続きをその日のうちに済ませてくれて、すぐに機械工場に配置変更してくれました。
翌朝、機械工場に初出勤した私は、入り口で待ち構えていた人たちに、わぁ!と拍手で迎えられました。どうやら市の労働課の人が工場に「彼は幼い頃に日本から帰国して、なんとわざわざ志願してあなた達の機械工場勤務になった素晴らしい青年なのだ。暖かく迎えなさい」と、事前に連絡していたようでした。「首領様の教示を実行したい」なんて言ったのはただの口実だったのですが、まさかここまで称賛されるとは思いもよりませんでしたね。
機械工場での仕事は本当に大変でした。生まれて初めてあんな重労働を経験しました。工場で働き出してから、配給も700gから800gに増えました。しかし、重労働にも関わらず、給料自体は設計事務所で貰っていた56ウォンより2ウォン下がりました。予想してはいましたが、やはり仕事内容の面でも給料の面でも設計事務所時代の方が良かったですね。
毎日重労働でしたが、現場では「たがね」など、日本語が現場用語としてたくさん使われていました。そのせいか、日本語が話せた私はそれなりに評価もされました。何より、仕事中は一生懸命働きましたから。その機械工場で私はおよそ11年間働き、その間に労働党への入党も果たしました。
◆博打打ちの老父が北朝鮮に永住帰国してきた
帰国してから、母が訪問団として81年と82年に2度、二番目の兄が85年に1度、そして父が87年に北朝鮮に来ました。高齢だった父は、なんと私たちを頼って、片道切符で北朝鮮へやってきたのでした。つまり「永住帰国」です。
日本にいた二番目の兄が父の面倒を見ていたのですが、ギャンブルに溺れていた父をとうとう見きれなくなってしまい、父に100万円持たせて北朝鮮へ送り出すことにしたのです。しかし、ギャンブル好きな父らしいと言いますか、なんとそのお金を既に90万円使ってしまっていました。
父が100万円持って来たことを知らなかった北朝鮮に住む兄は、日本にいる二番目の兄に電話で言いました。
「お前、月に10万とは言わないから、年に30万か40万仕送りしてくれよ。親父を手ぶら状態で寄越すなよ」
「兄貴、そんな欲張るなよ。100万も持たせているんだから当分は…」
「何!?100万?」
このようにして父の使い込みは、ばれてしまいました。しかし私が思うに、父は北朝鮮での暮らしにとても満足していたようです。
父は一日に300gの配給を受け、賭け花札も楽しんでいました。そして何より、父は北朝鮮へ来てから兄家族と暮らすことができました。孫達に囲まれ、敬われ、家族の中で過ごすことができたのです。父は私が小学2年生の時に離婚してからというもの、子供と一緒の家庭的な生活をしてこなかったので、暖かい暮らしに満足していたのではないかと、少なくとも私はそう思っています。
幼い頃の私は、ギャンブル三昧で子どもの面倒なんて一つも見てこなかった父を嫌っていましたが、北朝鮮という社会の中で大人になっていくうちに「大人の事情もあるのだ」と、少しずつ父という人間を理解することができたように思います。
父は人生の最期まで北朝鮮で穏やかに暮らしました。(続く)
※朝鮮戦争後の50年代半ばから北朝鮮はベビーブームが始まる。この世代が社会に出場始める70年代に住宅難が深刻になった。北朝鮮では住宅は国家の責任で人民に配定するのが決まりだが、それができず、他人同士がひとつ屋根に暮らす「同居」はありふれたものだった。