14歳で帰国船に乗った石川学さん
北朝鮮での30年とは何だったのか?
第9回 監視下に置かれた帰国者たちのささやかな楽しみ
前回は北朝鮮での学生生活を中心に述べました。今回は帰国の窮屈な暮らしについて話しましょう。
日本という自由な社会から、いきなり北朝鮮という統制国家に来て暮らすこととなった帰国者たちは、はけ口のない、なんとも言い難い圧迫感に苦しむことになりました。差別と貧困に苦しんだ日本を離れて帰ってきた「祖国」だったにもかかわらず、政府から常に監視されることになったのです。
私が1972年に帰国する以前に北朝鮮に来た人たちは、一度配置されると原則としてその地域から移動することは許されませんでした。監視しやすいように、一か所にまとめて居住させられ、帰国者部落と呼ばれる集落を形成したケースもあったようです。けれど私が帰国した頃には、帰国者たちが集まると政治に関する話をするなど社会に悪影響を与えると懸念されて、バラバラに配置されるようになります。帰国者同士が出会うことは難しくなってしまいました。
そのため、初めて会った相手が同じ帰国者だと分かると、
「親が帰国者なんだ。自分はよく覚えてはないんだけど、子どもの時に来たんだ!」
「そうか!よろしくな!」
「俺の家は近くだから遊びに来いよ!」
そんな風に会話が弾んで、すぐに親しくなったものです。同じ日本で育ったという親近感と、日本時代を一緒に懐かしむことができることが、何よりも嬉しかったのです。
監視と社会統制の厳しい日常でしたが、まれに帰国者同士で集まって日本の歌を歌うこともありました。しかし、私の場合は大人になって北朝鮮社会である程度の信用を受けるようになった党員になってからの話です。人の目をはばかりながらも、私たち帰国者は気心の知れた仲間との会話を楽しんで、お互いを支え合いました。
帰国者らの変化
日本に戻って来て、私はよく、次のような質問を受けます、「帰国した人の中で、とても真面目だった人が非行に走ったり、喧嘩ばかりしたりするようになったという話をよく聞くのですが、石川さんはなぜしっかり勉強しようと思ったのですか?」
私の場合、祖国に来たからにはしっかり勉強しなくてはと思いました。悪い方に走る人もいましたが、人それぞれ理由があったんだと思います。例えば、私の兄の友達は日本にいた時からずっと秀才で、帰国した後も勉強を続けて金策工業大学を卒業しました。もちろん、その人だって北朝鮮社会に対して色々と思うことはあったでしょう。しかし彼や私の場合、真面目に勉強する道を選ばざるを得なかったのです。
私の兄も、あの厳しい環境の中でよく頑張っていました。日本で少年院や刑務所での暮らしが長かった兄は、逆にそのおかげで北朝鮮での生活になんとか耐え抜くことができたのです。とっくに成人していた兄でしたが、仕事で疲れ果てて、寝ている間におねしょをしてしまうこともありました。
兄は配置先の製紙工場から私たちが一緒に暮らす六畳の部屋に帰宅し、服も脱がず「あー疲れた」と言って倒れるようにそのまま寝床に着いていました。食事もせず寝入ってしまった兄はいくら起こしても起きなかったですね。それで次の朝起きると、おねしょしてしまっていて…。それほど職場の毎日が過酷だったのでしょう。
兄も、帰国したからには真面目に自分自身を変えようとしているようでした。日本では何か不満があれば暴れていた兄だったので、その変化は見違えるほどでした。兄は姉のように北朝鮮が「地上の楽園」だと信じていたわけではなかったので、帰国する前からある程度の苦労は覚悟していたようです。
姉の場合は「地上の楽園」で皆が平等の国だと信じていただけに、「裏切られた」という想いは計り知れず、帰国してからわずか2年で精神病にかかってしまいました。この事については後述します。私たち兄姉弟3人、日本が恋しくて布団の中で泣く日もありましたが、私を北朝鮮に連れて行ったは兄や姉を責めたいと思ったことは一度もありませんでした。
北朝鮮の配給事情
ご存知の通り北朝鮮は社会主義の国です。基本的に食糧は自分が働いている工場や事務所から配給票というものをもらい、決まった量の食糧や副食品を居住地域から受け取ることになっています。たとえば秋、キムチを漬ける季節になると白菜や大根、唐辛子、にんにくなどの配給を受けます。
配給される食糧の量は仕事によって決まっていて、大体大人1人、1日に700g(重労働をしている人は800g)の食糧を雑穀やコメで受け取ります。祝日や主席の誕生日などには、卵、豚肉1kg、焼酎1本なんかが人民班から配られるという具合です。
家庭があって子どもがいると、受け取る白菜や大根の量は多くなりますが、世帯主ではない独身者は麻袋に入れて抱えられるくらいの量しかなく、特別な行事がない限り、唐辛子やにんにくは手に入りませんでした。(続く)