14歳で帰国船に乗った石川学さん
北朝鮮での30年とは何だったのか?
第8回 帰国後の学生生活
◆同級生にからかわれる北での学生時代
帰国した頃の私はまだ14歳だったので、恵山に来てすぐ恵山高等中学校に入学することになりました。
北朝鮮での義務教育の編成は日本と異なり、小学校4年間、中学校5年間です。*注 私は日本にいた時中学3年生だったので、本来ならば中学5年生として転入すべきなのですが、教科書を読んでも朝鮮語で書かれている内容が全く理解できなかったため、一つ下の中学4年生に転入することとなりました。
中学への転校初日はいつになく緊張したのを覚えています。当時を振り返ってみると、日本とは全く異なる社会環境に入ったこともあって、ずっと神経が張り詰めた状態で生活していたんでしょうね。
一学年200人ほどの生徒のうち、帰国者が5、6人いました。帰国者の生徒たちは珍しがられ、馴染めず、私の学校生活も順調に始まったわけではありませんでした。
私の朝鮮語の発音は日本訛りだったので、何かを話すたびに同級生たちに笑われました。サッカー部の活動では、着替えに持参した日本のズボンを周りから取り上げられたたこともありました。
バカにされて悔しい気持ちでいっぱいでしたが、今振り返ると、まだ子どもでしたし、仕方ないことだったのかもしれませんね。
◆勉強に燃えた中学時代
何より一番大変だったのは勉強に付いていくことでした。日本にいた頃の私は、両親の離婚を言い訳にして、勉強なんてしなくてもいいんだ! なんて開き直っていました。
学校にはただ寝るために通っていたと言っても過言ではないでしょう。両親の離婚で私の毎日は不幸なのだから、勉強している場合じゃないんだと思い込んでいました。
そんな私でしたが、帰国が決まってからは違いました。皆が平等に学びたいだけ学べる「祖国」では言い訳は通用しないだろう、勉強するんだ、自分を変えなければ! そう私は決意し覚悟を決めました。
日本ではテストの時、いつも白紙状態で出してしまうほど勉強しなかった私でしたが、帰国後は自分なりに一生懸命努力しました。
しかし努力も虚しく、恵山の言葉は標準語ではなく訛りが強かったこともあって、先生の説明を必死に聞いても、内容がほとんど理解できませんでした。「それでも自分は心を入れ替えたんだ、頑張って勉強しなければ…」 理解できなくとも、一度決めた決心を曲げることはありませんでした。
そこで、3つ年上の帰国者の友人から日本語の参考書を借り、授業で習った内容の復習を始めました。授業中は朝鮮語で説明されるため理解できなかった部分も、日本語で書かれている説明文を読むと「なるほど、先生が言っていたのはこのことか!」と、だんだん分かるようになりました。次第に分かることが増えていき、ついに満点を取れるようにまでなりました。
私の姉はずっと大学進学を夢見ていましたが、帰国してもその夢は叶わず、兄と弟のために尽くしました。日本にいた時も、姉は離婚した両親や落ち着かない兄に代わって家族の面倒を見るために就職したので、ずっと自分の夢を犠牲にしてきたようなものでした。そんな姉は、自分が大学に入れなかった代わりに、市の委員会に弟をなんとか大学に入れてくれないかと頼んで回りました。
毎日の勉強の積み重ねと、姉が市の委員会に頼んでくれたことが功を奏し、卒業時には金策工業大学の推薦をもらえたのですが、残念なことに時期が悪く、大学が新入生削減した時期と重なってしまったため、私は不合格となりました。
◆大学を諦め高校へ
残念ではありましたが、中学を卒業後、大学は諦めて恵山高等機械学校(日本の高校にあたる)に入学しました。そこでの担任は私と同じ帰国者でした。同じ出自だったのですが、先生は私に対して一切特別扱いをせずに厳しく接してくれました。
今振り返ると、日本と北朝鮮の両方の学校で過ごした私は、いろんな違いと差を痛感したように思います。教育制度の違いはもちろんですが、両国の一番の違いは子どもたちの「生活マナーの差」だと思いましたね。例えば、北朝鮮の学校でできたある私の友達は、勉強がすごくできましたが、万年筆のインクが切れた時はペン先に向かってペッと唾を吐いて、髪の毛でこすってインクを出そうとしていました。北朝鮮の子どもたちは賢いのに、日本の子らと違って生活をしていく上で必要な常識、マナーに欠けているなと感じましたね。
恵山高等機械学校に進学する頃、姉は精神病を患ってしまい、入院することとなります。当時の診断は「分裂症」でした。この悲しい出来事については、後に詳しく話したいと思いますが、姉が病気になった原因はきっと、帰国当初「祖国」に抱いていた理想と現実のあまりにも大きなギャップのせいでしょう。姉は希望し続けていた大学進学の願いも叶わず、配置先や住む場所に関する希望も何一つ叶いませんでしたから。
姉の入院を機に、私は、兄と兄の妻(現地の人)の3人で暮らすようになりました。私は当時からぶっきらぼうな性格で「ご苦労様です」の一言すら自分からなかなか言えないような青年でしたから、兄の妻とは良い関係を築くことができず、高校時代は毎日がとても辛かったですね。
こうした日々を送っていくうちに、恵山高等機械学校を卒業しました。
私はいよいよ働くことになります。(続く)
*注 20201年時点の北朝鮮の義務教育は、幼稚園1年、小学校5年、初級中学校3年、高級中学校3年の計12年。