14歳で帰国船に乗った石川学さん
北朝鮮での30年とは何だったのか?
第7回 恵山での暮らしが始まる 〜セイコーの時計が兄弟を救う〜
◆新生活早々の受難
北朝鮮へ着いてからの2か月間、落ち着かない暮らしが続いていましたが、ようやく住む家が決まり、「祖国」で新しい生活を始めることになりました。
兄は製紙工場に配置され、引っ越し当日は兄の仕事先からも何人か来て荷物運びを手伝ってくれました。私たちは日本からテレビ、冷蔵庫、洗濯機、自転車といった電化製品を持ってきていましたが、恵山市からも引越しのお祝いとして、家具を数点と白米30kgを頂きました。
まだ10月の恵山ですが、日本と違い空気がしんと冷えていて、冬を思い起こさせるような冷たさでした。私たちにあてがわれた部屋は八畳一間で、トイレはありませんでした。
新しい環境で、そのうえ日本とは比べものにならないほど寒い場所での慣れない暮らしのため、私たち兄弟は揃って大腸炎にかかってしまいました。血便が出て、もう死ぬのではないかと思うほど苦しんでいた時、姉が日本で勤めていた朝鮮新報社の人から貰ったセイコーの時計が、ここに来て役に立ったのです。
その時計を北朝鮮の幹部たちが使うような薬と交換してもらい、なんとか命拾いしました。もしその時計がなかったら、私たちは、今もう生きていないかもしれません。薬をくれた人は、私たちが治った後も、時計と薬の交換じゃ割に合わないだろうからと、蜂蜜と朝鮮人参を持ってきて食べ方を教えてくれました。
住み慣れた日本から北朝鮮へやって来て、思い描いていた暮らしと全然違っていた衝撃と、母に会いたいホームシックもあって、私は気持ちが滅入っていましたが、この時は人の優しさに触れて嬉しかったのを覚えています。
日本から持ってきたものがいくらくらいで売れるかと言いますと、セイコーの腕時計、3万円で買った自転車が、朝鮮のお金で800ウォンほどで売れました。意外にも価値が低かったのはテレビです。当時8万円で買った白黒テレビを日本から持ってきていたのですが、帰国した1972年当時の北朝鮮では、まだテレビの電波が行き届いておらず、電源を入れても「砂嵐」しか映りませんでした。そのためでしょう、250ウォン程度でしか売れませんでした。セイコーの時計は10個携えて来ましたが、いざという時のために残しておきました。たとえ配給が足りなくとも、出費を切り詰めたり、我慢したりして乗り越えました。
こうして、帰国船に乗った時から2か月以上経って、ようやく私たちは落ち着くことができました。そして私たち3人は配置されてから兄が結婚するまでの約4年間をそのアパートで過ごします。
木枯らしが吹きつける恵山の寒い冬は、12月になると零下40度まで下がることがあります。10月でも既に水が凍るような気温でしたので、10月に新しい家で生活を始めた私たちはキムチを漬ける時期を逃してしまいました。ですが、兄が働いていた製紙工場の人たちが「これで冬を過ごして」と、各家庭からキムチを一キロずつ出し合って、私たちにくれました。
帰国者は基本的には一番下の階級と見られていました。当時、「地上の楽園」だと信じて北朝鮮へやってきた帰国者たちは理想とかけ離れた現実に落胆し、北朝鮮の思想教育や政治体制を口に出して批判しました。普段から政府に対する批判を口にしてはいけない、祖国を敬うべきだという現地の人たちの考え方とはかけ離れていたこともあり、帰国者たちは現地の人たちにとって異質な存在として扱われました。
しかし、先に述べたように現地の人々の優しさに触れることも数多くあったのです。私たち兄弟は北朝鮮へ来る前から思想ついて教育を受けていたこともあって北朝鮮的な考え方を受け入れやすかったせいか、現地の人たちに珍しいと思われることはあっても、特段差別を受けることはなかったように思います。
◆姉の叶えられなかった夢
何度も話の中に登場しますが、私の姉の目標は北朝鮮で大学に進学することでした。しかし兄が製紙工場に配置されたのとほぼ同時に、姉は両江日報という新聞社の編集部に配置されました。姉は本当に勉強がしたかったので、金日成総合大学の通信制の学部に入学し、年に二回ほど平壌にあるキャンパスに通いましたが、途中から病気になってしまい卒業できませんでした。姉の病気については、後に詳しく話したいと思います。
そのこともあり、姉は自分が大学に行けなかった代わりに、弟である私を何とか大学に入れてくれないかと市の行政委員会(地方政府)に懇願しました。日本では授業中もっぱら寝ることしかしていなかった私は、一転して猛勉強をするようになり、テストで満点を取ることもできるようになったのです。(続く)