2019年11月13日 大阪にて「北朝鮮帰国事業とは何だったのか? 帰国者と在日家族の証言で考える」が当会の主催で催された。
登壇者は、キム・ジュソンさん(関西から1970年代に帰国、「飛べない蛙」著者、韓国在住)、榊原洋子さん(1960年代初めに帰国、関西在住)、チョン・ムンジャさん(1940年鳥取県出身。両親と兄弟姉妹ら一族10数人が帰国。「帰らなかった在日家族」の立場から発言)をお招きし、当会理事の合田創、石丸次郎事務局長の司会で進められた。当日メディアを含め100名を超える参加者で会場が埋められ「帰国事業」の社会の関心の高さを伺い知ることができた。
帰国事業初期(1960年代)と帰国事業の終盤期(1970年代以降)に帰国された方のお二人の発言をかいつまんで紹介する。
榊原洋子さん(1960年代前半帰国)
11歳のとき「帰国事業」で両親と3人で北に渡る。脳卒中で寝たきりになった母を抱えるどん底の暮らしの中で「共和国に行けば病気を無料で治せる」という朝鮮総連の宣伝を信じ、北朝鮮では衣食住に困ることはなく無償で教育を自由に受けることができ職業を選択できるという、まさに「地上の楽園」という政治プロバガンダのもとに祖国を目指した。だが、配置された山奥の農村は日本にいるときと比較しても、その貧困は想像を絶する厳しさだったという。農家の納屋に住まわされ、日本から持参したわずかな家財を置き母を寝かせると足の踏み場はなく、約束されていた最小限の医療も受けられなかったという。食糧配給は月2回あったものの、配給された穀物には白米はほとんどなく、トウモロコシが主だったが、とても人が食するに値しないもので日本では豚や牛の飼料用のものだった。当然、肉や魚など栄養価の高い物は手に入らず「ずっとおなかがすいた状態だった」。北朝鮮での暮らしを「地獄のよう」と表現し「当時を考えると今でも涙が出そうになる」と胸の内を明かした。努力の末、師範大学まで進むことができたが生活費を工面できず中退した。
キム・ジュソンさん(1970年代帰国)
1970年代になると徐々に北朝鮮の実態が在日社会に知れ渡ることになり、一緒に帰国したキムさんの祖父は現地の生活水準を多少なりとも知っていたようだが到着した日に「ここまでひどいとは思わなかった」とつぶやいたという。しかし、70年代以降に帰国したキム・ジュソンさんは、帰還事業初期に帰国した方たちとは若干違い「北朝鮮にいる頃は 意外と日本からの送金とあわせて、日本や韓国の映画やドラマのビデオテープや雑誌などは目にすることができた」という。80年代に入ると日本から朝鮮総連の各種代表団や商工人たちが北朝鮮を訪問できる機会が増えると禁制品である資本主義的文化の流入は北朝鮮当局が目を光らせていても、それを阻止できることはできなかった。「“口”というのは、頭で考えることを発露する器官だが北朝鮮では違います。例えば、指導部批判は当然ご法度でそれは頭の中にある自分の正直な考えを蓋(ふた)する器官なんです」と言う。しかし、同じ帰国者同士の友人たちが集うと、当局に隠れて昔懐かしい日本のアニメの話や当時流行っていたフォークソングなどを歌ったり、体制をブラックユーモアで語り合ったりして過ごした。「今だから笑って話せますが、尋常ではない圧制下、精神面のバランスを保てたのはユーモアを失わなかったからでしょう。信頼できる仲間と時々、頭の中を解放することが大切だったんですよ」
(次回は11月17日、東京早稲田大学にて行われたシンポジウムの様子をお届けします)
(S)