2018年7月8日に大阪で開催された集会、『在日帰国者は北朝鮮でどう生きたか?~北から逃れた人々を迎えて~』では、会場の参加者からの質問に答えて、朴永淑さんと林潤美さんに語っていただきました。(後編)
(モデレータ 石丸次郎)
石丸:少し時間をさかのぼって、60年代、あるいは70年代でもいいんですけど、日本に帰りたいと思ったことがありましたか?
朴:そりゃあ、ありましたよ。私だけじゃない、帰国者の人はほとんどそうでした。それはでも考えるだけで、実現はできないから。
石丸:でも、日本でもしんどい暮らしだったとおっしゃっていたでしょ、経済的にも。
朴:それは私の場合は短期間そうだったのであって、父親がそれでも事業していたから、生活はそんな苦しいほうでもなかったんです。学校もみんな行きたいところに行って、息子のために、事業失敗して、苦しくなったから。だからもうそうですね、兄のために家が苦しくなったというのはありましたけど、父親としては、子供のために、よく努力していたみたいです。
石丸:もう一つ、1940,50年代、朝鮮人に対する差別はとても厳しかったでしょ。ヨンスクさんも、朝鮮人だということでいじめられた経験はおありだと思うんですけれど、それが朝鮮に帰ったら、そういう民族差別から逃れられて清々したとか、そういう気持ちにはならなかったですか?
朴:そういうこともちょっとありましたね。その帰国問題が、実現できたのも、日本政府に対しても不満がちょっとあったし、それから、総連の人たちにも不満がありました。
石丸:それはヨンスクさん自身が?
朴:不満というよりも、結果として、よくなかったから。
石丸:どんな時に日本に帰りたいと思いましたか?
朴:やっぱり、こっちに来れば、向こうで母親も亡くなったし、父親も亡くなったし、兄弟も捕まっていったりするし。こっちに来れば、兄もいるし、姉もいるし、友達もいるし、向こうでできないことは、日本に行けば解決できるんじゃないかなあという希望を持っていましたから。
石丸:広島のご出身ですけれど、日本に来られて、故郷広島にはたずねて見られましたか?
朴:行きました。
石丸:昔のお友達とかにも会いましたか?
朴:逢いました。
石丸:それは日本人のお友達?
朴:ええ。
石丸:どうでしたか、40年ぶりにお会いして。
朴:すごく喜んでくれました。
石丸:どんなお話をされましたか?
朴:よく帰ってきてくれたね、あんなところからよく抜け出してきたねと言って、泣いてくれました。
石丸:今でもやり取りはあるんですか?
朴:今はもうちょっと、あまりにも長くなったから。死んで手紙が来ないのか、わかりませんから。
石丸:それはいつですか、故郷訪問。
朴:私が行ったのですか、友達に会ったのはもう15年前くらいになります。2002年で初めて会ったんです。2005年くらいまでは文通もあったし、それから電話もしたし、会いもしたのですが、ぷっつり手紙が来なくなってからは、死んだような気もしますし、わかりません。
石丸:40年ぶり、いや50年ぶりか。訪れた広島の町は、もうすっかり変わっていましたか?
朴:ええ、すっかり、姿は変わっていました。姿は変わっていましたけど、その昔の面影はそのまま残っていました。
石丸:どんな気分でしたか、その街を50年ぶりに訪ねられた時は。
朴:懐かしかったです。学校にも行ってきましたし。
石丸:最後に一つ会場から回ってきた質問ですが、「日本から総連の活動家や朝鮮学校の子供たちが、祖国訪問で北朝鮮に渡航して、金親子の銅像に頭を下げています。北に行った在日同胞がひどい目にあったのに、今もこのような行動をやめないことについてどう思いますか。」と。この質問をお二人にするのはちょっと酷かなと、日本の事情もよく分からないでしょうから。今でも総連の支持者の中には、北朝鮮がいいと、金一族の支配を受け入れている人たちもいますけれども、そういう人たちの行動を見て何か思われることはありますか?
朴:ちょっと不思議な気がします。
石丸:なぜ不思議ですか?
朴:実際的に言って、向こうの生活が、もし100人いれば100人が不満を感じるのであって、それに憧れる人はいないはずなのに、本当にその人は、本心からそうなんだろうかという疑問を持っています。
石丸:北の帰国者たちは、100人が100人、みんな不満を持っていたんでしょうか?
朴:ええ。そうです。実際に聞いてみたらみんな不満を持っているのであって、いいという人は一人もいませんでした。
石丸:何か、記録を取るという意味でも、とても重い課題を私たちも突き付けられたような気がします。
司会:今日の証言も含めて、記録を確かな記録としてとどめることは、同時代を生きる私たちの責務ではないかと思います。本日はどうもありがとうございました。(終)