数年前、ある新聞の記事に釘付けになった。
仙台のとある中学校の校長宛てに一通の手紙が届いたという。そこには「PYONGYANG(ピョンヤン)」の消印が押されていた。1958年ごろにその中学を卒業し、翌々年に家族と北朝鮮に渡ったという女性からだった。その女性は当時日本人だったが、母親の再婚相手が在日朝鮮人だった。北朝鮮に渡った彼女は中学時代の同級生だった親友とずっと文通をしていたという。ところがある時、その文通が突然途絶えた。中学の校長に宛てたその手紙には、親友の身元に何が起きたか調べてもらえないか。そうしてもらえれば、「一生ありがたく思いながら生きる事にいたします」と書かれてあった。女性は、楽しかった中学時代を忘れたことがないという。「死ぬ前に一度でも仙台に行きたい、でも今の私の事情ではとても考える事がむずかしいみたいです」としたためられていた。手紙を受け取った校長は、遠い国からの手紙に驚きその文面に心打たれた。
校長はその手紙に書かれた親友の住所を訪ねた。そこには女性の姿はなかったが、聞くと一人暮らしだったその女性は、自宅を引き払いどこかのグループホームに入ったらしい。それ以上はわからなかった。迷いつつも「何らかの事情で、おひとりの生活が困難になったようです」と消息を記し北朝鮮の住所へ書き送った。校長は全校集会で生徒たちにいきさつを紹介し、こう話したという。「異国でつらいこともあるだろうが、中学時代の思い出を大切に、がんばっている人がいる。皆さんも3年という限られた時間で、自分なりに思い出をつくってください」
この女性はどんな人生を送ってきたのだろうか?1958年ころ中学を卒業してピョンヤンに渡ったようなので年齢を推測するに、現在ご健在なら80歳を手前にした御歳だろう。
かつて帰還事業で北朝鮮に渡った約10万人近い在日コリアン。そのうちその配偶者や子弟たちに日本人も6千人以上含まれていたという。日本社会での貧困と差別から逃避し『地上の楽園』という甘言に胸踊らされ帰国した北朝鮮社会では何が待ち受けていたのだろうか?多くの情報から察するに日本にいる私は、さらなる飢えや差別、そして口を閉ざされ、目を覆われ、耳をふさがれた恐怖政治の監視社会の想像はたやすい。
私の叔父(큰아버지:父の兄)一家も帰国船に乗って北朝鮮に渡ったあとずっと音信はなかったようだが、17年後たまたま私が柔道の国家代表として北朝鮮を訪れたおりに叔父とホテルで面会することができた。朝鮮労働党幹部を目の前にした叔父は、久しぶりのお酒なのか満面に笑みをたたえ「日本に帰ったらお前のアボジに『俺は偉大な首領様と党の恩恵を受け、社会主義祖国の暖かい胸の中で家族一同幸せに暮らしている』と伝えてくれ」
日本に戻り父にそのことを伝えると、「そうか。それは良かった」と一言だけ言って、めったに酔った姿を観せることはない父がその夜したたか酩酊した。その深夜、父の寝室からすすり泣く声が漏れてきたのを思い出す。父の死後、母から聞いたことがある。叔父が日本を離れる数日前、父と二人で酒を酌み交わしたそうだ。実は父も兄(叔父)の後を追ってやがて北朝鮮に帰国するつもりだった。「俺が北朝鮮からの消息がなかったり、もし『祖国で幸せに暮らしている。お前も早く祖国に来て幸せに暮らそう』と手紙があれば、その時は絶対に来るんじゃない」
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人生の終焉を迎えようとする年齢に達した手紙の主は、なつかしい故郷の空と中学時代に心を馳せながら何を思っているんだろう。もういちど、七夕を見ることができたらいいのになぁ。
それを思うと胸がつぶれそうになる。(S)